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尾道学研究会 顧問 荒木正見

 新開について最も関心があるといえば、その再生である。全国の同様な町が生活スタイルの変化で苦戦しているが、新開は尾道の歴史の厚みにより、どこにも負けない質の高さを以て現在の飲食店街を活かした再生が可能だと信じる。その背景を少し述べたい。

 新開の心理的中心となると現在も三体みこしの盛大なお祭りが繰り広げられているように、厳島明神社であろう。文化13年(1816年)に刊行された『尾道志稿』では、「鎮座年代分かり」かたし」とありまた「尾道七社」として、尾道でも古祠であることが述べられている。そして同時に、この地を築島というのは、昔このあたりは海であって、この地が海に張りだしていたからだと述べられている。(編集発行:得能正通、発行所:備後郷土史会、昭和9年、備後叢書第十巻 『龜山士綱著 尾道志稿』、13頁)

 新開は埋め立てによって出来上がっていった町である。文政4年(1821年)の『尾道町絵図』(昭和57年、復刻発行:藤井吉蔵)では、この一帯の埋め立てがほぼ現在の広さを保ち、そこには「灰屋吉兵衛」という名が見える。しかしそこには芝居小屋はすでに見えるが、現在に至る密集した家屋は見えない。

 この地域はその後尾道を代表する歓楽街へと変貌を遂げるが、付き物の遊女置屋は、この地域に集中する以前は明和元年(1764年)の『御国廻御行程記』(山口県文書館蔵)にも記されているように、港の機能の中心であった住吉浜あたりに存在していたようである。それが徐々にこの埋め立て地に集まってきた。

 全国の同様の歓楽街は我が国の明治以降の近代化と経済成長によって画期的な発展を遂げた。多くは埋めたてられて新地、新開地となったあたりにそのような施設が集中していく。尾道・新開の多くの方々の記憶に刻まれている姿は、この明治以降のきらびやかな風俗であろう。このような歴史のプロセスが極めて興味深く感じられるが、それは同時に、その歴史こそが新開の未来の方向性を示唆しているからである。歴史は人類の生存に向かって取捨選択を繰り返す。歴史の中で何が生まれ今何が残っているのか。そのことをテーマに考え、残っているものすべての本質的価値を燃え上がらせて、新開の再開発のテーマにしてみたい。

 

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